2016年07月31日

本山へ参拝しないと功徳がないとのデマ

日蓮正宗より破門されて以降、学会員は当然ですが総本山への登山(参拝)はしていません。
まぁ破門されているのですから当然ですが・・・

その当然の道理が分からなくなっているのか?法華講では学会員宅を突然訪問してきては、「総本山に登山して、戒壇の大御本尊を参詣しないと成仏できない」などと的を射ていない事を言ってきます。

法華講さん「直接、戒壇の大御本尊を参詣しないと成仏できないって御書ありますか?

逆の御書はあります。

松野殿御消息 p1379
いまだ見参に入り候はぬに、何と思し食して御信用あるやらん。是れ偏に過去の宿植(しゅくじき)なるべし。来生に必ず仏に成らせ給ふべき期の来たりてもよをすこころなるべし。

大聖人とお会いしていないのに信心をされた松野殿へのお手紙には、「かならず仏になる」とご断言されていますけど?
posted by 向上長チームH at 00:00| 自語相違

2016年07月15日

大聖人直結は謗法とのデマを切る

ネット上でもよく目にする「大聖人直結」は謗法とのデマを紹介しましょう。

佐渡の国法華講衆御返事 歴全1巻
案のごとく聖人の御後も末の弟子共が、誰は聖人の直の御弟子と申やから多く候。これらの人は謗法にて候也。
※ 原文はひらがなですが、漢字をあてています。

この日興上人の御書を依文として、法華講では学会の「大聖人直結」を謗法であるとしています。

しかし、法華講は重大な自語相違をしています。
hk_youshi.jpg
<大白法 S37年11月20日付>

上の画像は、日蓮正宗全国法華講連合会が結成された昭和37年に、その結成あたり定められた「日蓮正宗法華講要旨」です。

最後の行をよく見て下さい。「一、法華講衆として大聖人に直結した信仰を致しましょう。

綺麗なブーメランになって戻ってきてますよ法華講さん!
posted by 向上長チームH at 00:00| 自語相違

2016年07月14日

ニセ本尊デマを切る!法主のみが本尊書写の権能がある

法華講では、学会下附の御本尊は無許可の御本尊であるとの批判をしてくる。

富士宗学要集1巻 p112-9 有師化儀抄註解
曼荼羅書写の大権は唯授一人金口相承の法主に在り敢(あえ)て沙弥輩(しゅみのやから)の呶呶(どど)する事を許さんや
※ 有師とは、大石寺第9世の日有の事

法主のみが、漫荼羅書写の大権があるとの事だが、日興上人の本六(本弟子六人)の日華(にっけ)は、法主でもないのに御本尊を書写している。

日興上人詳伝 p575
『正中二年六月三日 武田□泉法号日了菩提。』 正中二年 1325年
日興上人入滅は、日華の漫荼羅書写8年後の正慶二年二月 1333年
(日華書写本尊を参照の事)

日興の本弟子六人に入る弟子が、漫荼羅書写の大権が法主にのみ限られている事を知らない訳がない。
漫荼羅書写が法主に限られた事が事実なら、日興上人は存命中に弟子を教化できない無能な上人となってしまう。
更に、日華は日興本弟子六人でありながら、師匠が存命中に謗法を行った事になる。

ここまで言うと法華講では、法主の許可があれば御本尊書写ができると、それらしい事を言って誤魔化してきます。

しかし、そもそも法主の許可が無くても、末寺の住職は御本尊が書写できます。

富士宗学要集1巻 p71-最後の行 有師化儀抄
一、漫荼羅は末寺に於て弟子檀那を持つ人は之を書くべし判形をば為すべからず云云、但し本寺の住持は即身成仏の信心一定の道俗には判形を成さるゝ事も之有り、希なる義なり云云。

末寺で弟子旦那を持つ僧侶は、之(漫荼羅)を書くべしと書いてありますね。
結局、大聖人が言われていない本尊書写の権限なんて、後から法主を偉大に見せようとしただけの権威・権力主義の結果でしかないのです。

まあ、そもそも学会下附の御本尊は、学会は書写してませんけどね。
posted by 向上長チームH at 00:00| 本尊批判

2016年07月08日

ニセ本尊デマを切る!歴代法主も開眼が必要と言っている

法華講では、御本尊の開眼供養は大聖人以降の歴代法主も開眼の必要性を言われていると主張します。

第二十二世日俊『本門如来寿量品二十三座』 『歴全』3巻 p3
『開眼と云うは、眼(まなこ)を開くと云う事なり。魂なければ眼は開くべからず、開かざれば益(やく)も無く用(ゆう)も無し』

第三十一世日因※ 出典を失念
『木絵の二像は本(も)と草木にて有り、然(しか)るを生身の妙覚の仏と開眼したまふ事は大事至極の秘曲(ひぎょく)なり、日蓮聖人乃至日因に至る迄三十一代累(かさねる)も乱れず相伝是れなり』

第五十六世日応『弁惑観心抄』 研究教学書27-p474
『金口血脈には、宗祖己心の秘妙を垂示し一切衆生成仏を所期する本尊の活眼たる極意の相伝あり』

歴代法主の言葉を並べれば並べるだけ、大石寺では昔から「法主の特別な秘術」を主張して、法主絶対・法主神格化を目指し、それを相伝してきた代々権力主義の寺であったことがわかります。

ズバッと日蓮大聖人が、曼荼羅本尊の開眼が必要であるとの文証を示してくださいよ、まぁ無いですけど!
posted by 向上長チームH at 00:00| 本尊批判

2016年07月07日

ニセ本尊デマを切る!授与書き・脇書きを削る

法華講は、よく学会の本尊は「授与書き・脇書き」を削除した変造本尊だから、ニセ本尊だ!との批判をしてきます。

富士宗学要集8巻 第三漫荼羅脇書等 p178
弘安三年の日禅授与の大聖人御筆漫荼羅に、『殊更に文字を抹消したる所を判読すれば』とあり、大聖人御筆漫荼羅に日興上人加筆の部分を殊更に抹消している箇所があります。

歴史に詳しい法華講は、重須(北山本門寺)に武田の軍勢が押し入って、奪っていった本尊だから宗門が抹消したわけではないと言うでしょう。
歴史ではなく、現実に脇書きを抹消した御本尊があるのですから、その本尊は変造本尊=ニセ本尊にならないと、完全な自語相違ですよ。

堀日亨上人が、『殊更に文字を抹消したる所を判読すれば』と書かれた後には、判読された文章が「本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり。」であると書かれています。

本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり。」とは、日興上人の加筆であるとの事ですが、戒壇の大御本尊があるはず?なのに、なぜ日禅授与の本尊に「本門寺に懸け」との脇書きを加筆したのでしょうか?
posted by 向上長チームH at 00:00| 本尊批判